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新制作「Traum−夢の中の夢−」振付家 森優貴にインタビュー(前編)

「Dance Speaks 2024」で世界初演となる「Traum-夢の中の夢-」。
その演出振付を手がけるのが、日本人として初めて欧州の劇場において芸術監督を務めたことでも知られる振付家の森優貴さんです。
6月に集中リハーサルを行うために来団された際に行った総監督小山久美との対談記事をお贈りします。
ドイツ留学を経てダンサーそして振付家として活躍するようになるまで。“芸術界の父”と仰ぐシュテファン・トスとの出会いや人生最大の岐路、そしてレーゲンスブルク歌劇場芸術監督時代の知られざるお話まで・・・。
今回の創作過程やダンサーとのリハーサルに加え、たっぷりお話しくださいました!

 


バレエをはじめたきっかけ〜ドイツ留学

 

小山久美 まずは森優貴さんを知るところから・・・。貞松さんのところでバレエのお稽古を始めたんですか?

 

森優貴 もともと5歳のときから子どもミュージカル劇団に入っていて、そこでバレエを指導されていた先生の教室で10歳から始めました。当時はバレエっていう世界がある認識がなく、“舞台に立ちたい子ども”でしたね。

 

小山 そのころから、割と自分の意志があったんですか?

 

 ありましたね。はじめは子どもながらに将来はミュージカル俳優としてやっていきたいと思っていたので、当時ご指導をいただいていた演出家の先生に「すべてのダンスの基礎となるバレエはやった方がいい」と仰っていただいたのをきっかけに始めたんです。

最初の頃は、女の子の中で男の子は僕ひとりで、小学生ってそういう環境だとやっぱり行っても「おもしろくない~」って行かされてる感はありましたが、楽しい思い出ですね。その後、東京バレエ団の元ダンサーである津村正作先生に出会い、初めて男性の先生に教わるようになり、少しずつバレエに通う回数が増えると同時に、ミュージカルの方からは少しずつ離れていきました。

高校入学と同時にもっと本格的にバレエをやりたい、同世代の男の子も在籍し稽古できる場が学校生活と両立可能な距離感で近くにないかということで、知人の紹介で、ご縁があり神戸の貞松・浜田バレエ学園に見学に行って。ちょうど貞松正一郎さんが松山バレエ団を退団され神戸に戻ってこられたタイミングで、ボーイズクラスも充実していてバレエ学園直結であるバレエ団にも第一線で活躍される男性ダンサーの先輩方がいらっしゃるのを見て、通わせていただくことになりました。

 

小山 その頃にはミュージカルへの道というのはもう全然考えていなかったんですか?

 

 そうですね。貞松のボーイズクラスに入って、ジュニアバレエ団として毎日稽古ができるようになり、仲間ができて。バレエ団には古典だけでなく創作の公演もあり、バレエダンサーを志すということがグッと近づいた。鈴木稔さん振付の「アンノウン・シンフォニー」がすごく好きになり、当時テレビで放映されたのを見よう見まねで踊っていました。クラシックバレエにとらわれず、どんな踊りでも踊りたかった。

そしてプロのバレエダンサーでいこう!と気持ちが固まり、高校卒業と同時に貞松・浜田バレエ団に入団するんですが、父親が僕が幼少時から芸事をしていること、そしてたどり着いたバレエを仕事にすることに反対でして。だったら大学4年間行かすつもりで2年間留学させてほしいと父親を説得して、貞松融、浜田蓉子両先生、正一郎さんの大きなご協力もあって、ドイツ ハンブルク・バレエスクールに留学させていただきました。

 

キャストは、全員参加のワークショップを経て決定されました。

 

バレエ学校卒業後、ドイツでダンサーに
〜シュテファン・トスとの出会い

 

小山 それで、卒業後にそのままドイツで就職されたんですか?

 

 はい、最初はニュルンベルク・バレエ団に入団しました。女性の芸術監督が新就任し、劇場が改装されカンパニーも新しくなるというタイミングで、カンパニー立ち上げのダンサーオーディションがあったんです。ダンサーは全部で16人なのですが、その中の7人は他のカンパニーからの移籍入団が決まっていて、残り9人の枠に400人くらい集まって。結局ニュルンベルクには3年間所属しましたね。

 

小山 すごいですね。卒業したてのニューフェイスでオーディションに合格されて。
ニュルンベルク・バレエのレパートリーはどういう感じなんですか?

 

 完全にコンテンポラリーですね。芸術監督の振付作品、あと常にゲストコレオグラファーを招聘していたので様々な創作の仕方を学ばせてもらいました。コンセプト作りから参加して議論しながらワークショップしていくとか、振りだけ渡されるとか。ただ僕自身、様々な振付家とその都度の創作過程に関わり、と言うよりも、もっとじっくり1人の振付家に付きたいっていう気持ちがあって。そのタイミングで師となるシュテファン・トスと出会うんです。

 

小山 それで彼のカンパニーに移ったのですか?

 

 はい、シュテファンが当時芸術監督を務めていた北ドイツのキールという街から、ハノーファー州立劇場のカンパニーに芸術監督として異動し、カンパニーもコンテンポラリーの規模では珍しく30人以上のダンサーを雇用と、かなり拡大されるという情報が入ってきまして。ニュルンベルクでの公演後、夜行列車に乗り込んで公開オーディションに挑みました。

ドイツの劇場では劇場支配人の異動があると、同時にその下のバレエカンパニーやオペラ歌手、役者、クリエイティブスタッフも人事異動になってしまうんです。要は新たな経営、芸術思想の下残れるのか、解雇になるかということなのですが、新たに就任する劇場支配人が自分のアーティスティックスタッフを一緒に連れて来るというのが一般的な流れなので、結果的に劇場運営側スタッフ(財務総裁、人事部長、総務など)以外は総入れ替えになってしまう。

そういったドイツの劇場システムの中、結局シュテファンの下では11年間で2つの劇場(ハノーファー州立とヴィースバーデン州立)に所属しました。

 

小山 その間に振付を始められたんですよね?振付を始めようというきっかけは何かあったんですか?

 

 先ほども話したのですが、ジュニア時代からクラシックバレエに囚われずいろんなものを踊るのが好きだったんですよね。その気持ち、関心はずっと根底にあって。ハンブルク・バレエスクール留学中も卒業試験の一貫として自分の振付作品を出さないといけない、そして同級生の作品にも出演するんですが、そのときに「創る」って楽しいなと感じていて。

シュテファン・トスには入団後まもなく「振付も勉強していきたい」というのは伝えました。そこからいろいろ教えてくださるようになり、機会を与えてくださるようになった。僕も公演とリハーサルの合間に劇場の客席に行って照明作業を見たり、自分に関係のないリハーサルでもシュテファンがどう創作していくか見学したり。そういう姿をシュテファンも見ていてくれていたので、彼の作品のバレエマスターに起用してもらったり、彼の作品を通して「踊る」だけではなく「舞台を創る」という経験もさせてもらいました。小劇場での作品発表の機会や、振付国際コンクールでの受賞を経て、彼の新作「春の祭典」と僕の作品をオーケストラでのダブルビルでデビューさせてもらいました。

 

小山 それが何年目くらい?

 

 5年目かな?皮肉にも、それがハノーファー劇場支配人の異動により解散となるシュテファン率いるダンスカンパニー最後の公演となりました。

 

小山 11年間の半ばくらいからはそういうポジションを作ってもらったのですね。

 

 ええ。ハノーファーの劇場支配人の異動に伴いカンパニーは解散となり、一度シュテファンから離れることになりました。僕はスウェーデンのヨーテボリ・バレエ団に入団するんですが、移籍したすぐにシュテファンから連絡があり、カンパニーが翌年秋からヴィースバーデンで再開するというのを聞いて。北欧に引っ越したのにまた引っ越しかーって(笑)

実は、スウェーデンに移ったタイミングで、ピナ・バウシュヴッパタール舞踊団から入団のお誘いを受けていたんです。もう一度シュテファンの率いるカンパニーに戻るか、新たな未知のドアを開けるか。僕の人生最大の迷いと言えるほどの2択でしたが、ヴッパタールに所属していた知人やシュテファン本人にも相談して、最終的にはシュテファンの「優貴は僕の下で学べることがまだあるはず」という一言で、「よし!」と彼のもとに戻る決断をしました。


 

一度離れたシュテファン・トスのもとに戻る
~レーゲンスブルク芸術監督就任まで

 

小山 それでドイツのヴィースバーデンの劇場で、再びシュテファン・トスと一緒に働くのですね。レーゲンスブルク州立からのお声があるのは、その後ということになりますね。

 

 そうですね。僕としては、シュテファンのカンパニーにもう一度戻ったとき、ちょうどカンパニーの世代交代も終わり、ハノーファー時代からメンバーも変わり、新たなスタートのタイミングだったんです。今まで若手からエースのように扱っていただいていたのが、これからはカンパニーを引っ張っていくリードメンバーとしての移籍というところで、以前より振付やバレエマスターの仕事もさせてもらいましたし、僕自身がシュテファン・トス・カンパニーの第2章を、新たな時代を共に作り上げていきたいと思っていました。

 

小山 本当に彼からの期待値も大きかったんですね。

 

 僕にとっては当時も今も芸術界の父ですね。本当にすべてを教え込んでくれていたので。彼の師匠であるパトリツィオ・ブンスター(元クルト・ヨース舞踊団ソリスト)が築き上げた「ドイツ表現主義思考でのダンス理論」もシュテファンから原本を受け継ぎましたし、その理論が根底にある音楽的でダイナミックな創作スタイルはすべての作品を通して僕自身の創作の血と肉になっています。
だから、レーゲンスブルクの芸術監督のお話をいただいたときは「え、やだ」って(笑)僕はまだ彼の下で学びたかったし、自分のカンパニーを率いていくという関心や夢はあったのですが、覚悟はまだなく、ずっと引き延ばしていたんです。当時ダンサーとしても立場があり、振付家としても作品を出せていた。そしてなによりシュテファンから離れたくなかったんですよね。

 

小山 本当に?それはおいくつのときですか?

 

 32歳ですね。ちょうどカンパニーが休暇中でプライベートでパリに行っていたんですよ。そしたらシャンゼリゼ通りのカフェにいる時に突然知らない番号から電話がかかってきて、「今ひとりですか?話せますか?」って聞かれて。まだ芸術監督の候補者が他に何人かいる段階で、もし興味があるなら一度お会いしたいと。政治家みたいなんですけど、そういう人事決定前の面談のときって、本当に水面下で会わないといけないんですよ。だからもう、劇場側と僕に全く関係のない土地を選んで国境を越えてオーストリアのどこどこで会うとか・・・

 

小山 すごい、映画みたい。

 

 シュテファンは、「伝えることは優貴にすべて伝えた。最後に優貴に与える課題は、教えたことを世界中に広げていくこと。そしてこれからは師弟ではなくドイツ舞踊界の同僚として互いに創作していくこと」と。それが決め手になりました。芸術監督就任がメディア等に公式発表になるまでに色々な手続きがあり、準備に2年弱かかったんじゃないかな。就任したのは34歳のときでした。
ダンサーとして踊りながら、水面下で準備をしている間もカンパニーの同僚たちは全く何も知らなかったので色々大変でした(笑)リハーサルスケジュールを調整してもらい、未来の上司や自治体の議員に会いに行き、劇場でのプログラムラインアップを考え、雇用するダンサーの給料を劇場側と交渉して決めていく。何も知らないダンサー仲間は「また優貴がいない」と思っていたみたいです。ヴィースバーデンでは盛大な退団公演もしていただきました。

 

小山 こんな日本人いないですよね。芸術監督のオファーがくるなんて本当にすごいことだと思うんです。ダンサーでトップになるのとまたまったく別じゃないですか。ましてやその部分の先駆者みたいな人がこれまでいなかったわけで。それも30代前半で。芸術監督に就任する話を聞いた時から、ただものじゃない感を私は持っていたんですよ。

 

 本当にありがたいことですね。何の準備もなく本当に目の前のことをやっていただけで、そういうお話がまわってきて。本当に、シュテファンをはじめとするすべての人々との出会いに恵まれました。

 

小山 タイミングとかご縁みたいなものがあるのはそりゃそうでしょうけど、そうやって振り返ってみたら、先ほどの大きな決断というのがこういう道に繋がっていたってことですよね。

 

 そうですね。ヴッパタールからお話をいただいたときも、実は2年に渡り2回お断りしたんですね。そのあとヴィースバーデンへ、シュテファンの下へ戻るわけですが、そこで5年間、僕のためだけに作られたパートや作品を踊ることもできた。当時はもちろん自分の道の流れなんて自覚はしていませんが、自分にとっては必然的に流れたのかなとも。

 

小山 振り返ったときにしかわからないですよね。

 

 そうですね。でも基本、性格的に何を選択したとしても良い方向に進んでいるだろうと思うので。いい方向に持っていくのは自分次第ですから!

花、帽子、アタッシュケース・・・小道具にも注目です。

 

 

レーゲンスブルクでの芸術監督のときのお話

 

小山 34歳の日本人がドイツの劇場の芸術監督になるって。そういう人材に声をかける彼らの度量の広さというか、視野の広さみたいなのもすごいなと。あと前例主義にはならないような決断力。でもそこに選ばれるっていうのは相当なことだと思うんです。

 

 就任したのはレーゲンスブルクという街の歌劇場で、ミュンヘンやニュルンベルクと同じく南ドイツに位置する街です。ドイツの中でも南ドイツって様々な歴史的背景・理由から保守的です。戦時中の爆撃被害も少なく、文化芸術がしっかりと残された方です。ドイツは連邦制なので州により文化、芸術にあてられる国家予算にも大きく差があります。南ドイツは基本的に他のドイツの地域とは大きく違い予算もしっかり出ている方で、地域的にも近代化されすぎていない。美しいままのドイツがそこにはあり、芸術を仕事とする身にとっては最高でした。しかし、保守的であるが故に差別ではないけれど偏見はありましたね。街の公立劇場の芸術監督ですし、メディアにも出るので街中に顔が割れます。とにかく、「若い日本人が我らの街の舞踊部門の芸術監督か」と市民も興味津々だったようです。

ふと思い出したのですが・・・就任して1シーズン目に、ワーグナーの生誕200周年で、ワーグナーの人生を生オケで全幕で上演してほしいと上司である劇場支配人から強く希望されて。南ドイツは特にワグネリアン、そしてバイロイト祝祭劇場があり、政治的背景をとっても、ものすごくデリケートに扱わなければいけないことから「日本人の僕がワーグナーを・・・」と。

 

小山 知ったかぶりって言われたらねえ。

 

 そのときはベルリンの知り合いの構成作家の自宅に1週間滞在し、朝から晩までメトロポリタンやバイロイト祝祭劇場で上演されたワーグナー作品映像を観たり、楽譜を調べたり。政治的背景や交友関係の資料も読み漁って構成作家と議論を重ねました。最終的に、1幕はワーグナーが3人の女性と人生を共にしながら、ルードヴィッヒ2世に出会い世に出ていくまでをストーリーオムニバス形式で見せる形にして、2幕は完全に抽象的なもの(ワーグナーの作品の最大テーマである自己犠牲と救済)にしてオペラ「パルジファル」の曲を使い完成させたんです。

でも初日が迫り、ゲネプロ前日のドレスリハーサルを見た支配人が「1幕がストーリー、2幕が抽象的という流れはわからない。観客は具体的な物語を理解できた上で帰宅してもらったほうがいい。初日は1幕と2幕をひっくり返せ!」って言いだして。
内心本当に驚き怒りもあったのですが、今からそんなことできないと僕が即答で却下してしまうと企画全体が止まってしまうと思ったので、公演に関わる全員に我慢してもらって、迷惑かけたけれど初日前日のゲネプロは一回ひっくり返したんです。そうすると、オーケストラも2幕だけに編成されている方がいたり、楽譜を譜面台に置く順番も変わってくるし、そのために譜面台に楽譜を用意するオーケストラスタッフにも伝達しなければいけない、照明のキューはすべてプログラム完了しているけれど2幕から出していかないといけない、舞台転換、進行も全部狂い、ダンサーのメイクスケジュールなどもすべての部署において変更が生じるんです。でも全部署に説明してひっくり返して一度試した。たとえ自分の内心では結果、答えは出ていたとしても、芸術監督として、振付も担う立場としてとりあえずやってみた。そうして他のスタッフも見た結果、やっぱり本番初日は当初の形でいくと伝えたんです。そのとき初めて劇場支配人と喧嘩をしたというか。「もし順番をひっくり返して初日を迎えるのであれば、僕が日本人として南ドイツにきて、ワーグナーのテーマに向き合ったこの準備期間と生み出した作品を、あなたの名前の下にしてください。僕の名前は省いてください。そして初日に僕の姿はないと思ってください」と。

それが支配人にとっては目覚ましパンチだったんですよね。自分自身が雇った若い芸術監督が言うことを聞く子なのか、歯向かってくる子なのか。支配人はオペラのディレクターでドラマトゥルクでもあるので、知識も豊富で、彼自身が描いていた「ワーグナー生誕200周年企画イメージ」があったのでしょう。「抽象性」よりも「具体性」で幕を閉じるべきという考えは頑固に持っていました。でも、制作、創作したのは僕ですから。そして安産ではなかった。初日が明けて3日後くらいに支配人が僕の事務所に謝罪に来たのですが、「でもあれは支配人としての芸術的意見であり、そこへ優貴は振付家としてぶつかってきた。いまだに演出・構成に納得はできないが。しかしこうじゃないと、ぶつかり合わないと俺たちはやっていけない」って。そのあとから、「優貴がやることは信頼するから好きなことをやれ」って言ってくれるようになったんです。

 

小山 ちゃんとぶつかったんですね。かっこよすぎるそれ。涙が出ちゃうくらい。人間力というか。やっぱり私はすごい人に声をかけてしまったんだね!

 

 そんなかっこいい話じゃないですよ!その後退任するまでの7シーズン、支配人とはいろんな機会で言い合いも喧嘩も日常茶飯事でしたし(笑)
劇場の他のスタッフ、構成作家や演出部、照明部、舞台スタッフさんとか、僕よりも経験のある目上の方たちばっかりでしたが、それでも僕の指示で動いてくれて、彼らは支配人の考えに対して口は出さないんですよね。僕がどうするかを見てる。それはそうですよ。僕自身が生み出す立場ですから、創作者の意見と決断を待ってる。最初にそういうことがあったことで、こいつなら大丈夫って温かく迎えてくださっていたんじゃないかな。どんな無理な状況でも「優貴の作品、カンパニーのためなら」と言って動いてくださるいわゆる「現場」のスタッフのサポートには本当に助けられましたね。

 

小山 そうやって劇場を支えてきたんでしょうね、長年いる人たちは。そのポジションにいるのは芸術監督と支配人なんだっていう、あり方をわかっているんでしょうね。それって頭で理解するのと、現場って違うじゃないですか。それだけの信頼関係がいいきっかけで出来上がったのか。心が躍るな~、そういう話は。

 

 本当に密な7年間でしたね。支配人である彼自身が、僕が日本に帰国したいと告げた時、その後退任までの残りの時間も大反対でしたからね。寂しそうだった(笑)

 

小山 行くなー!って?(笑)
ノイマイヤーだってハンブルク・バレエにアメリカ人が、って。それも、それを受け入れるその土地のすごさみたいなのをなんとなく感じていたけど、そうやって彼は50年くらい結局いたのかな。それと同じような現場にいらしたってことじゃないですか。本当にすごいですよ。

 

 でもトゲ刺しもやっぱりありましたね。劇場の財政を支えている「友の会」向けのイベントや公式会見などで、「劇場がちゃんとお金を払ってでも優貴がドイツ人のようにドイツ語を話せるように教育したほうがいいんじゃない?」っていう話とか。僕が記者会見とかでいろいろ話をしたあと、僕が退席してからそういう話になったりするんですって。言いたいことはよくわかるけれども・・・訛りや言い回しまではね。。
だから次の記者会見の時に僕言いましたもんね。「僕のドイツ語大丈夫ですか?皆さん理解できていますか?」って。そうすると現場にいる劇場スタッフが奥でOKサイン出してくれたりして(笑)
逆に、行政の役員、それぞれの政党の議員の方々の前で会見をする時などは、本当に温かく、興味を持って聞いてくださる。

 

小山 ずっとドイツ語でやっていたんですか?英語じゃなくて?

 

 そうですね。ダンサーとは英語やドイツ語。ダンサーも世界各国から来ていますが、生活する国の言葉くらいは習得しなければと思い、リハーサルもドイツ語で行うようにしたりとか。
日常の会議や、スタッフとの打ち合わせ、記者会見、評議会で来シーズンのラインナップを発表するときなどは基本的にドイツ語です。ドイツの公的劇場の芸術監督ですからね。

 

小山 ハンブルクにいたときからドイツ語を勉強していたの?

 

 いやー、やっぱり聞き取れるまでに3年かかりましたね。ちゃんと文法を勉強せずに聞き覚えと会話から自然と身についていったものなので、余計にそのような意見があったんでしょうね。
だからある時記者会見でたまたま「ここ数年を振り返ってどうですか?」と質問を受けたときに、「母国語のように聞こえない僕のドイツ語へのご指摘があったのも確かです。ただそれを反対の立場で考えてみてください。日本で、日本の行政と政治と関わりながら公立芸術で創作活動し、作品を発表し、芸術監督として街の文化と教育に責任を持って貢献してみてください、日本語で」って。大喝采でした(笑)

 

小山 なるほど、負けてないですね(笑)
レーゲンスブルクに行ってからはダンサーとして踊っていないんですか?

 

 最初のシーズンは、若い芸術監督として認知されていたのと、現役引退したばかりで、ダンサーとしての僕のことも見てくれていた支配人から「まだもったいないから踊ったら?」と言われたこともあり1作品だけ踊りましたね。立ち上げ公演で踊ったのは良かったと思います。ダンサー達も「基準」とするレベルが理解できたと思うし。

 

小山 そこは葛藤はなかったですか?やっぱりもう少し踊りたいとか。今リハーサルを拝見していると、すばらしく動いているじゃないですか。これは踊りを見たいっていう声もあるだろうし。

 

 葛藤はなかったですね。踊ること、舞台に立つことに対して、個人的にあまり執着がないんです。
もちろん、リハーサルや教えるときに動いているときはやっぱり楽しいですよ。そして今でも機会があり踊れるのであれば踊ろうと努力はしますし(笑)その都度、楽しさは残っている。前にシュテファンに言われた言葉があるんですが、シュテファン・トス・カンパニーでの僕の退団公演のときに、「音楽が流れると、優貴は翼が生えたかのように舞い始める」っていう言葉を彼が贈ってくれて。その感覚、音楽が鳴ると憑依してしまうっていうのは自分でもわかっているんですが、すごく嬉しかったですね。そんなこと11年一緒にいて、面と向かって言われたことないのに。

 

小山 本能的なことですね。翼が生えたようにっていうの、いい表現ですね。ずっと心に置いている言葉なんですね。


後編に続きます。

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